理想主義の甘ちゃんではなく原理主義のマッチョさん

http://www.foocom.net/column/editor/4043/

 編集部はさらに、「大人もリスクをわかっていないのでは。リスクを承知していることが前提の『自己責任』という表現は馴染まない」と言ってきた。
 しかし、この時は、原稿の前半でリスクを説明していた。そのため、それを踏まえて「自己責任」を読者各々に考えてもらいたい、という思いから、結局は「自己責任で食べるのを止めることはできません」という表現のままにした。

 消費者が科学的な情報を入手したうえで、自分で判断してリスク管理できる社会、大人はリスクを理解して死や重大な後遺症も覚悟のうえで自らは食べることはあっても、保護者としての立場からは子どもやお年寄りには食べさせない社会。そんな姿を実現したい、と理想を抱く。でも、やっぱり無理? 国や行政にあれこれ指図され、法律でしばられないと、消費者はだめなのか?
 食品衛生関係者には、「理想主義の甘ちゃんだ」と叱られる。現実はもっと厳しい、ということかもしれない。

松永さんは普通にリバタリアンなのだろうと思った。

さて、超訳シリーズも第三回が期待されてたところで、都合よくというか、どこからともなくユッケさんが登場した。正直、私もブログを始めるにあたり、なんとなく松永さんの連載のペースに合わせて書き始めてみようか思っていただけなので、別にどんな話題でも構わないところ。

自分のペースとしても、読んだ本のことも書こうかと書きつつ、それでも今は放射線の話が気になり、そちらも書いていたら、あれもこれも気になり、こんなものじゃ、とてもじゃないが駄目だと満足が行かず、しかも松永さんの立場となれば、私のようなただのブログではないので、なおさらに書きづまっているのだろうと思う。

氏の掲げる理想。私も好きだ。だけど現実問題として、避けられるリスクを過剰に取っている親御さんも多い。むしろ、リスクを避ける人は避けるが、避けない人はリスク地雷原のド真ん中を突っ走っている。そんな買い物の風景。

茨城の牛乳は、もう大丈夫なのだろうか。人の母乳での数値の減少は、水道水の減少より遅かったようだ。乳牛はどうなのだろう。餌は大丈夫のようだ、「適切に管理されていれば」。それにしたって、適切に管理された上で出ているのなら、おそらくは空気からだったんだろうと予想はできる。今の空気は原乳に影響が出るほど汚染されてはいないだろう。

でもどうなのだろう。少しだけ探せば、ちょっと隣の店に行けば、北海道産の牛乳はあるんだ。安いから買う。そうれも個人の自由だ。自由は厳しい。そこにパターナリスティックなお節介をしたいと思うのは良心なのだろうか、偽善なのか、単に悪なのか。

パターナリズムリバタリアニズムとの、どちらをも立たすことができる道は残されているのか。帰結的に愚行権が尊重されるのはなにか違う。かといって、事前に明示すれば解決するのか。それだって疑わしい。自己選択という建前のパターナリズムにある程度はなるだろう。そんな言われるなら買わない。食べない。選ばない。

そう、それは選んではない。選ばない。それではやはり違うのかもしれない。でもそれだって個人の生き方であり、生き方というほど高尚なものでなければ、生存戦略とも言えるんだろう。別にそこには何も思わない。

というわけで、オチ無し。そういえば、3月下旬で公園で遊んでた家族を見て、大丈夫なのだろうかと思ったことを思い出した。私の子ではないし。でも。かといって。なんなのだろうな。